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2019年6月3日月曜日

「絶対」の、絶対性についての話。いや、絶対、て、ありますよ。

「絶対」て言葉は信用しない。

ていう信念を持ってる人。結構多いと思うんですよね。

すごく素敵やと思うんです。
向上心があって、何ごともポジティブに受け止めようという、
意志があるというか。

素敵ですよねぇ。

・・・・

ただ、・・・。
「絶対はない」という、ポジティブワードって、ある種キケンやってこと、知ってもらいたい。

いや、スイマセン、
絶対、って、ありますよ。

たとえば、
・この世に生を受けたということ。(ココ引っかかったら、もっとややこしくなるので割愛。)
・死ぬということ。(コレは、人間以外にも全てのものが当てはまりますよね。きっと、地球や、宇宙も含めて。)

この二つは、人類にとって、絶対に経験せざるを得ないことです。
ちなみに、地球は46億年?
その中で、人類はたったの15万年前(「新人類」として、ホモ・サピエンスから進化し、「ホモ・サピエンス・サピエンス」と言われているとのこと。※研究者によって、250~175万年の誤差があるそう)って、スゴくないですか?

この、46億年
まぁ、ヒトが生活していたにしろ、15万年

100%動物、植物、人間、関わらず、みんな死んでるんですよね。

いやこれ、スゴくないですか???

人間の脳ミソって、結構かしこく作られてるハズなんです。
でも、については受け入れられないんやなぁ、いつまでたっても。

と、思うわけです。

なんかなぁ、合理的ではないですよね。少なくとも。
まぁ、人間の良いところだとは思うんですけどねぇ。



と、理解できはするけど府に落ちない。
なんとなく、もしゃもしゃしてしまうわたしです。


スッゴイ雑記になってしまいましたケド、
結論としては、

いや、「絶対」って言いますケド、
「絶対」って、ナンデスカ?

ソレ、いや、ドノ時代デノ絶対デスカ?ていう。

ま・・・・
コトバも、結局、人類が作り出したものなので。

ドコに、意義を求めるのか、て話なんですけどね。

要は・・・

「絶対はないヨ。(キラッ)」な、タイプな人。いや、モノに寄りますけどね。
「人は死なない」て信じてる人、マジ止めた方がいい。

て話です。

人は生まれて、死ぬ。コレは絶対に決まってることなので。


2019年2月14日木曜日

『今、日本人の精子がピンチ』ってホント?

夕方のニュースで、
子どもを授からないカップルの特集が組まれてました。
キャッチが、『日本人の精子がピンチ』やったり、
『今、日本人の精子が少なくなってます』やったり。
いやそりゃ多少は、食生活とか生活習慣の変遷に影響されてるのかもしれませんけど、
単純に、ここ最近でやっとデータが集まってきたってことやと思うんやけどな。(ちなみに、ここ最近=ここ40年。だそう。最近じゃない。)
「不妊は、約半分は男性が原因」と紹介されましたが、正しくは「約半分は男性“にも”原因」がある、です。実際、男性のみに原因がある場合、男女ともに原因がある場合を合わせて48%。このうち約半数は女性側“にも”原因があるのだそう。だから結果的に二人共検査、治療を受けるのが吉てゆうことですよね。
まぁ、結婚、こども、て、二人の問題ですからねぇ。
ここまで『男性が、』と強調されるのは、
不妊は女性側に原因があるものだ、と長く信じられてきたからで、検査や治療を受けたがらない男性(と、その家族)が多かったから。
これ、無意識下のヤバイ思想がこびりついてるってことで、あえて限定的に強調してるんやろうけど、、、
ちょっと語弊があるよなぁ。。。
けど、今の医療だと、
「精液に精子が一匹もいない」ていう場合でも、
精巣開いて採取することもできる(可能性もある)らしい。
すごい。
結婚したい人は結婚して、
子どもほしい人は子どもが授かれる。
ていう時代が近づいてる。

2018年12月11日火曜日

「オレ達、しばらく距離置いた方がいいと思うんだ。」

「あなたのことがわからなくなりました。だから少し、距離を置きましょう。」的なやつ。

これって、すごい良い考え方やよなぁ。

ちょっと距離置いて、
冷静になってから
きちんと「要る」か「要らん」かを判断できる。
(諸々のイイ口実になってることもあるのだろうが。)

でも、これ、
だいたいの場合、距離置いた方が良いのって、
「相手」ではなくって「自分」だったりするよねぇ。

一番知るべきは、自分。


自分、も、
一応「人」なんですから、傷つけないようにしてあげたいよなぁ。とか、思ったりするのです。

ある程度、他人ってなんとなく大事にできるわけですけれど、
・・・というか、大事にしないとダメだよねぇ、みたいな考え方がどこかにあって。

昔から、
「他人の嫌がることはしないように」とか
「他人に思いやりをもって」とか、
色んなオトナたちから口酸っぱく言われるわけなので、自然に身に着く思想なのでしょう。

でもやっぱ、
自分、も「人」やねんよなぁ。と思うのです。

で、これって、
自分の良いように、自分のことだけ考えて、とか、そういうのんでは一応なくって。

自分、も、他人と同じように扱うことってできへんのんかなぁ。と。



生まれてから今まで、ずっと一緒にいるヤツ。な、わけですから、
なんとなく「熱」が入るというか、「情」があるというか。

自分って、良くも悪くも「えこひいき」してしまうなぁ。と。
冷静じゃないというか。

これって、自分、を、他人と同じように扱うことが出来さえすれば、
なんとなく、自分に対しても相手に対しても思いやりをもって過ごせそうな気がするなぁ。と
思ったんですが、


じゃあどうすればいいねん。ってなったら、むつかしいよねぇ。

やっぱ、自分が一番わからへんし、でも自分が自分のことを一番よく知ってる。ていう。


・・・というか、
「他人」と会うときの自分、は、結構いつもウソで、
自分一人で居てもどことなく自分を創り上げているんだと思うんですが、

じゃあ結局、
自分っていうのは一体何で、
どれが本来の自分で、どれがウソなのか。てなると、やっぱわからん。

なんじゃこりゃ。


「自分」が「他人」になる瞬間、て、人生のうちで訪れるんでしょうか。訪れてほしいなぁ。
なんとなく、おもしろそうだし。


・・・という話。

2018年10月24日水曜日

「いもむし女子」について考えてみた。やっぱり継続は力だ。

「いもむし女子」再び。

どのくらい反響があるのかさだかではありませんが、
今、「いもむし女子」なる女子たちが吹き溜まっているよう。

「いもむし女子」というのは、
ドコモが運営する「アリシー」というコンテンツサイトの中で作られた言葉で、
現状に大きな不満はないけど、恋人もいないし、これといった趣味もない……なんだか将来に漠然とした不安は感じるけど、どうすることもなく、ただなんとなく日々を過ごしている。
どんな蝶になるかはまだわからないけれど、どんな蝶にもなれる可能性を秘めている、そんな伸び代がある 
という30代前後の女性のこと。


アリシーは、そんな女性が自分自身を受け入れて、自分らしく過ごすための提案や、ライフスタイルを充実させるアイデアや商品の提案をする情報サイト?のよう。


以前の記事はこちら。
「いもむし女子」について考えてみた。やりたいことの見つけ方



「いもむし女子」になってしまう原因は大きく分けて二つで、

・自分が何をしたいか、どうなりたいかがよくわからない。

あるいは、

・どうすればできるか、どうすればそうなれるのか手段がわからない。

というのがあるのじゃないかな。と思われる。


前者に関してはまた機会があるときに触れていきたいが、
今日の記事では後者、特に「どうすればできるか」について。

前者の原因に対して、後者は目標がある程度定まっている状態なので、
きちんと整理すれば必ず到達できます。


したいことがあるのに、できない理由の大半は、

昨日の記事でもお伝えしたように、
「自分自身でストップをかけている」ことに終始するかと思います。


たとえば、
こういうことがしたい、けど、お金がない。とか。

どこそこへ行ってみたい、けど、時間がない。とか。

やってみたい、けど、本当にできるのか不安だ・こわい。とか。

だいたいは、自分が傷つかないように、自分を守るために、楽するために、安心するために、
なんだかんだと「言い訳」をつくってやっていないことが往々にしてあるかなと思います。


本当にやりたいことなのであれば、
借金してもできるし、時間は自分で作れるし、失敗したって死ななきゃやり直せます。

借金しても返せます。今の時代、稼ぐ方法は山ほどありますし、収入が低くても支出を減らせばお金は貯まります。

1日24時間の動きを見直せば、自由な時間を作ることもできる。


そして、できないことのもう一つの原因は、

「成果が出るまで続けられなかった」ことが挙げられると思います。


たとえば・・・、

今、ライターの数が圧倒的に足りていないと言われています。

PCは一人に一台以上が普通になり、インターネットはもはや人々の生活の中心になっています。
大手企業含め、中小企業のプロモーションでWEBサイトが主流になり、個人事業主や起業する人が増え、自己ブランディングが非常に重要になっているためです。


ライター業は、日本語を扱うお仕事ですし(日本国内では)、日常生活で日本語を使いこなしている私たちは比較的容易なお仕事なはずです。(一応色々お勉強はいりますが。)

そのため、主婦の方や会社勤めをされている方も副業でライターをされている方は多いです。
また、パソコンとインターネット環境、最近ではスマホだけでも仕事ができ、
短時間でも作業ができるので空き時間で報酬を得ることもできます。


これだけ聞くと、かなりオイシイ仕事だし、殺到するんじゃないかと思いますが、現状、圧倒的に数が足りていないのです。


この理由は、
「きちんと収入が得られるまで続けられる人が少ない」からです。


ライター業を始めたばかりの頃は、
得意先ももちろんありませんので、一か月の収入が1万円を切ることも多いです。
うまくいかないと、このまま数ヶ月収入が上がらずそのまま辞めてしまう方も非常に多いです。

でも、続けていれば得意先が増え、単価が増え、仕事が増えます。
続けていれば最初の月から考えると20~30倍、もしくはそれ以上の収入が得られるようになるわけです。


成果が出るまで、成功するまで続ければ、それは失敗ではなくなります。

途中でやめてしまうと、それまでの努力は無意味になります。
(もちろん、まったく無意味というわけではないけど。)


成果が出なくても、モチベーションを保って続ける。
そしたら、いずれ少しずつ成果が得られるようになります。

辞めてしまわなければ、100%です。

最初の時点と、現在の時点をきちんと比較することができれば、
自分が成長できている実感が得られます。100%です。


継続は力なり。昔の人はやっぱりすごい。すごいなぁ。


…今日は「引き寄せの法則」を書きたかったのだけど、
書いているうちに趣旨がぶれました。まぁ、そんな日もあらーな。

引き寄せの法則については、また後日。

2018年10月23日火曜日

やろうと思えばだいたいのことはできる。はず。という話。

25だか26だかの頃だったと思うので、つい2~3年前の話。

「30になるまでに京都に帰りたいなぁ。」と思っていました。

思っていましたのを、今朝、思い出しました。

京都、というか、山科に。
山科っていうとけっこうみんなバカにするけど、
めちゃくちゃいいとこ。

団地と田んぼしかなくって、でも適度に生活には困らない。

人も車も少ないし、静かで。
うるさいのは、隣の田んぼのかえるくらいでした。

そんなことをふ、と思い出して、

「あーぁ、山科帰りたいなぁ。もう2週間でリミットやんか。」と、
ちょっとしょんぼりしておりました。


で。

なぜ、わたしは山科に帰れなかったのか、を考えた。

・仕事の問題?
たしかに不便だが、通って通えんことはない。

・金銭面の問題?
家賃もろもろ別途かかるのはもったいないが、別に出せんことはない。
そもそも山科はだいぶ家賃が安い。

・家族の問題?
たまにおばあがすっころんで骨折ったりするが、
そのときもだいたい救急車に同乗して病院に送り届ける程度のはたらき。
普段家にいても家族と何をするでもなし。

・生活力の問題?
かなり不安はあるが、大学に通ってた4年間は同居人はいたが一通りのことはやった。
いや、やらざるを得なかったのでやった。
とりあえず生きるだけの生活力はあるはずだ。

・・・・。

いや別に帰れなかったわけじゃないよなこれ。

やろうと思えばできたし、なんなら今からでもいける。やろうと思えば。


つまり、できたはずやのに自分が「やらんかった」だけの話ということ。

いやいや。そらあかんでしょ。

結局のところ、うだうだとなんやかんや自分で理由をつけて、
自分が「あー、やりたいなぁ」と思ってたことをないがしろにしてたってことです。

いや、あかんでしょ。

それってけっこうありがちで、
「あー、でもなー」とか、
「わかってんねんけどなー」とか、
「〇〇ができたらやろうかなー」とか、
「もうちょっと〇〇してから」とか。

周りの状況を言い訳にして、周りの状況のせいにして
当の自分は何もしない。

いやそりゃあかんでしょ。

結局なにも変わんないよな。それじゃ。と。


「自分がやりたいこと」にストップかけてるのは、だれでもなく「自分自身」やねんな。と。


それでうだうだしてるのって、ダサいなぁ・・・。と。

思うわけです。


・・・だからどうした。だから何をするんや。ということなんですが、

どうしてもやっぱ、ストップはかけてしまうのだ。
変わること・変えることっていうのはとてつもないエネルギーが必要なわけだ。

ほやけど、意識ひとつでちょびっと変わったりもするわけだ。

なので、もーちっと、シンプルに生きれるようになろう。
とちょびっとだけ決意を固めました。

自分が変われば、世界が変わる。のだ。間違いなく。


・・・という話。今日もまとまりませんでした。



2018年10月15日月曜日

わたし流、しあわせの作り方

しあわせに死にたいので、
つねに自分の嗜好には敏感でいたい。

好きなことをやって、好きなひとと過ごして、好きなものを集める。できる限りたくさん。
そいでできる限りたくさん好きを増やす。

しあわせはただの概念なので、
自分の気持ちひとつで変わります。

世間の、こうあるべきという先入観にとらわれると途端にむつかしくなるし、自分でブレーキかけて好きが見つかりにくくなる。

なので、好きを自分できちんと判断する。しあわせを自分できちんと決める。具体的に。

よく、しあわせになりたいとだけ言う人も多いけど、
じゃあ、あなたにとってしあわせってなんですか?ときくと、
具体的な応えが返ってこないことも多い。

わからないのになれるわけがない。

そういう人はだいたい、
世間が先入観でつくった「しあわせ」という幻想にとらわれてる。

いくら探しても見つからない。だって幻想だもの。「解なし」。

ただ、「解なし」には何通りかあって、
計算・調査・分析しましたが、立証できませんでした、ていうのと、
答えにはあらゆる数値が当てはまる、無限大、てのと。
あとなんかあった気がするけど忘れました。「=0」みたいなんやったかな。

あとちなみに後者は厳密には「解なし」じゃないんやけど、解なしでも答えとしてアリ、みたいになってたはず。


話がそれました。


とりあえずつまり、
「しあわせってなんじゃこらー」っていう問の答えは、
「解なし、あるいは無限大」なわけなので、


"自分にとって"(都合の良い)解を与えてやればいいってこと。
その定義づけをうまくできれば、しあわせになりたいってのもけっこう簡単てこと。


ただし、その定義づけってのがちょっとむつかしくって、

先入観にとらわれずにきちんと自分で決めへんとあかんということ。
先入観とか、偏見とか、既成概念とか、常識とか。

けど、こういうのって、生まれてから今までの教育(洗脳)によるものなので、取っ払うのは非常にむつかしいのも事実。


なので、やや矛盾もあるが、わたしは、
生まれてから今までの洗脳の賜物である「先入観」「偏見」「既成概念」「常識」から
自分で見出した『価値観』に基づいた、自分の『好き』を、
自分の『しあわせ』と定義しました。


だから冒頭の通り、
自分の嗜好に敏感でいることが、
わたしにとっては非常に大事。


あー。しあわせな人生やったなー。つって死ぬのが目標です。

2018年10月3日水曜日

コミュりょく、ってなに?がくれき、ってなに?おいしいの?

ところで、
わたしが大学3~4年生の就活が流行ってた7〜8年前は、
ネコもしゃくしも「コミュりょくコミュりょく」と言ってたが、

今は見渡すと、

コミュ力なかった人のほうががっつり稼いでるんじゃないのか。

と思う。


コミュ力コミュ力、て言われる少し前は、
ネコもしゃくしも「学歴学歴」、ていうのが流行ってた。
高校卒業するときに丁度そのブームの途中だった気がする。

わたしは行きたくも行きたくなくもなかったが、
行く行かないを自分で決める前から「4年制大学」刷り込みがあったので、
大学は行くもんだと思ってたし、周りも進学する人ばっかりだった。

(さぞ意外だろうと思いますが、一応高校では府立高校の理数科クラスにいました。私学でいう進学コースというやつです。
演劇やりたかったので、演劇部があって、家から近くて、制服の可愛い高校をチョイス。
京都のある地域では、謎の「バス停制」というのがあって、府立の普通科クラスだと3校のうちどこに入学になるかわからなかったので、その高校にしかない理数科を受験したという流れ。)

結局、たまたま作文と面接(要は雑談)で入れる大学へ行きました。


芸術学科の受験を決めたら、母は大層驚いておりました。
(高校時代、塾に通っていて、制服の可愛い女子校から入学のお話がありましたが、学費が払えないため府立高校へ入ったという経緯があり、
大学は自由に選ばせてもらえる約束でした。

演劇の学校に行くのは実は高一から決めてたんだけれど。


まぁそんな感じでふわふわっと現在にいたるわけですが。


今から思うと、
大学に入ってよかったなぁと思うことはそれほどない。

卒業後農学部の水産もろもろががんばってるので話題の一つにはなりますが。


でも、大学に入って損したなと思うことは、
今のところ一つもない。

大学って、まぁ、
「専門的に学びたいこと、研究したいことを専門的に研究できる」
ていうのが魅力なわけです。

でも、17~18のこれからの少年少女が、
「自分はコレを学びたいんじゃ!!!」って
なります?普通。

なりませんよ。

思春期ですよ、まだまだ。
ブカツとバイトと好きな子のことしか考えてませんよ。

これから先のことなんか考えてませんよ。普通。

そういうタイミングで、
さも「これからの人生を決めなきゃならない」みたいなノリで
大学進学やら専門学校やらを選ばされるわけです。

無理だ。

ていうか、大学なり専門学校なり、その他スクール的なところって、
別に高校卒業してすぐじゃないと入学できないわけじゃないんだよ。

わたし、いましたもん、サークルに。
還暦越えの後輩が。

その人は単位履修生なので4年制のコースではなかったですが。

演劇だか、小説のコースだか、とにかく履修の学科は同じ。
たまに授業でも会いました。


いいんです。
勉強したくなったらそのタイミングでやれば。

もっと言えば、

大学じゃなくても勉強なんかいくらでもできる。

わたしみたいに、へらへら~っと、
なんとなく入って適当に4年間のモラトリアムを過ごしてるよりも
段違いに有意義だ。

・・・何が言いたいかというと、

学歴とか、どーでもよくない?てこと。

あと、

コミュりょくて。だれ基準?主観じゃね?

結局やりようじゃね?人基準のヤツ、ほんとに必要?

・・・てことかな。

まとまりませんでした。

「いもむし女子」について考えてみた。やりたいことの見つけ方

先日、リサーチ中だったか、ネットサーフィン中だったか。

「いもむし女子」という単語を発見した。


ちょっと最近、「~~女子」って言いすぎちゃいますか。
女性をターゲットにするとお金が動くって言いますけど、
なんでもかんでも「~~女子」って言いすぎちゃいますか。

と、ふわわ~っと感じていまして、
「今度は、虫が流行るのか・・・」
なんて思いながら、リンク先に飛びました。

どうやら、”虫を育てる・愛でるのが好きな女性“ではなく、
女性自身の性質とか、考え方にあてた言葉みたいです。


「いもむし女子」という言葉をつくったのは、
ドコモが運営する「アリシー」というコンテンツサイト。

30代前後の女性をターゲットに、
ライフスタイルを充実させるアイデアや商品の提案をする情報サイト?のよう。

アリシーによると、「いもむし女子」とは、
現状に大きな不満はないけど、恋人もいないし、これといった趣味もない……なんだか将来に漠然とした不安は感じるけど、どうすることもなく、ただなんとなく日々を過ごしている。
どんな蝶になるかはまだわからないけれど、どんな蝶にもなれる可能性を秘めている、そんな伸び代がある 
という女性。
アリシーは、そんな女性が自分自身を受け入れて、自分らしく過ごすための提案をしている。と。

なんか、すごいいい感じこと言ってるんですけど、
やっぱ「いもむし女子」って、なんか、なぁ・・・。

閑話休題。

「現状に大きな不満はないけど・・・」
「将来に漠然とした不安は感じるけど・・・」
「なんとなく日々を過ごしている」

って、女性だけの問題じゃないよなぁ。

運営してるアリシーは、女性向けのコンテンツサイトなのであえて「女性」を強調しているのだと思いますが。全然否定してるわけではないです。


一昔前と比べて今は、「人と比較せざるを得ない状況」ができあがりすぎてる気はする。

PC開けば世界とつながれて、
SNSで顔見知りも知らない人の生活が見えて、
なおかつ「いいね」っていうなんかどうしようもない機能があって。
(「いいね」についてはまた後日触れたい。)

他人は、それほど気にしてないのに、
「なんかずっと監視されてるような気がする」
という強迫観念が押し寄せてきやすい時代やなぁと感じる。

SNSって、ただのツールなわけですから、
依存しすぎると身を滅ぼすっていうのは、
みんなどこかしらわかってるんだと思うんですけどね。

ま、「みんな」って区切ると語弊が出るかもしれませんが。


海外ではどうか調べてないので知りませんが、
基本的に日本人は生真面目な性質をもつ民族なので

“SNS疲れ”を起こしたり、うつになっちゃったりとか、

結構よく聞くような気がします。


〇は飲んでも飲まれるな。
〇〇とはさみは使いよう。

とか言いますから。

ツールなんですから。


うまいこと適度に使えばいいのにねぇ。て。



2018年10月1日月曜日

べつに恋に限った話じゃないけど。

「好きになってもらえないなら、
いっそこっちから嫌いになってやる!!」

ていう回路、ちょっとわかる。



自分っていう人間は、
生まれてから今まで一秒も離れることなく過ごしてきたヤツなわけやから、

この世で一番情が移ってて
この世で一番かわいらしくって
この世で一番傷つけたくない。

ってのはわかる。



でも、


「いっそ嫌いになってやる!」っつって嫌われた方は

意味もわからず、意味もなく嫌われるわけで、
だとするとすっごい理不尽な話やん。


それはようない。
(訳:それは非常に良くありません。)


いいやん。ちょっとぐらい傷つけば。て。

死ぬわけでもなし。
何億とかの損害でるわけでもなし。
地球が割れるわけでもなし。

アラレじゃあるまいし。


人生ちょっとくらい傷ついたほうがいい。

わーって泣いて
わーって飲みゃあいい話やん。


そんくらいで意味なく人嫌いになる方がよっぽど損じゃね?

2018年9月24日月曜日

最近のNHKの攻めがおもしろい件。

タイトルの通り、
最近のNHKの攻めっぷりは非常に好感がもてる。

さっき、だらだらと見てたら、再放送でしたが、
同性愛者のタレントと弁護士、全盲の弁護士と、
トランスジェンダー(女→男)のアイドルグループと千原ジュニアさんで、恋の話してた。

その中で、
障害者に性欲があるとわかるとひかれる、という話をしていて、

それに対してゲイの弁護士さんは、同性愛者は性欲がめちゃ強いと思われてる、と。

これ、わたしの知り合いも言ってた。

以前、同性愛者ってことを知らなくって、
ヘテロ前提でいじってたら、
その日飲みに行ったときにカミングアウトしてくれたことがあった。

知らなくって、無神経にいじってごめんね、て言ったら、
慣れてるから、へいき。て言ってくれた。
慣れてる、ていうのに少し胸がきゅっとなったけど、
カミングアウトしてくれた後、好きな男性のタイプ談義が盛り上がってすごく楽しかったのを覚えてる。

ゲイ、レズってことを同性の友人にカミングアウトすると
めちゃ警戒されるのがホントやだ、ならしい。

そりゃそうだ。こっちにもタイプっちゅーもんがある。
勘違いしてんじゃねーよ、だよなぁ。

それって、
男の人は「女だったら誰でもいい」、
女の人は「男だったら誰でもいい」って思ってるってことと同義ということ。

・・・まー、あながち間違ってないか。←

や、冗談です。

とにもかくにも、さらっと冒頭でも触れたように、
NHKでゲイの弁護士とレズのタレントとLGBTのアイドル、それから全盲の弁護士が、
性的マイノリティーと障害者の恋と性的指向の話してるのはほんとにおもしろかったなぁ。

レズのタレントが最後に「まさかNHKで谷間が出せるとは思いませんでした」て言ってたのにつぼった。

うむうむ。
このままいい感じにひろがってけばいいなぁ。

2018年7月9日月曜日

自己嫌悪に陥っているあなたへ。こころのはなし。

オシゴトのはなしに続いて、こころのおはなしも少し。

わたしの周りの「自殺者」、「自殺志願者」または「予備軍」な方たちに共通して言えるのが、
「自己嫌悪に陥りやすい」という性質を持っているということ。


「なぜ、自己嫌悪に陥りやすいか」ということを考えてみたいと思います。


挙げられる理由は、大きく言うと次の3つじゃないかと推測されます。

・自己評価の低さ
・自己暗示
・混乱


簡単に言うと、

「自己評価の低さ」は「自己肯定感が著しく弱い」と言い換えることができる。
さらには、「承認欲求の強さ」に繋がること。


「自己暗示」は、「自分は何をやってもだめだ」とか、「どうせうまくいかない」とか、
何かをやる前に自分に『できない暗示』をかけてしまうこと。


「混乱」っていうのは、状況のよくない場面に遭遇したとき、対処の方法が見出せないがために
『自分を責めるしかない』状態になっていること。


ちなみにこれは、わたし個人の意見であって、専門的な見解ではありません。あしからず。


先日の友人のはなし。
彼女は、「上司に言われた通りやったつもりやけど全然できなくて仕事がボロボロだ」で、
「『わかったふり』してる、『責任感がない』と上司に見られている」と言っていました。


これは問題だなぁ、とわたしが思ったのは、
彼女が落ち込んでいる原因が、
「仕事がうまく行かなかった」ことよりも「~~~、~~~と上司に見られている」ことが大きいということ。


自分のことをマイナス評価されるのを極度に怖がるあまり、
パフォーマンスを落とす結果になってるんじゃないかなぁ。と。


基本的に、「承認欲求」というのは誰しもが持っているものだと思います。程度の大小はあれ。

だって褒められたいもの。好きになってもらいたいもの。
怒られたい、嫌われたいと思って生きてる人なんていないでしょう。居てもかなり少数派です。


この、「承認欲求」が強すぎると、
「わたしはこんなに頑張ってるのに、なんでわかってくれへんの!」みたいなことになっちゃう。


でも、わかるわけないんです。
他者他人のスキルレベルとか、これまでの努力とか、明確に理解・判断できるような人なんかいてません。
ていうか、居たら紹介してください。


わからないから、
例えば「お前はもっとできる子や!」とか、「この子は伸びるはずや!」とか、過度の期待を押し付けて結果的に相手を潰すことになったり。

例えば、性質に合わない仕事を押し付けて結果が出ないことにイライラしたり。てことになる。


正直、押し付けられた方としてはいい迷惑ですよね。

なんでアンタにそんなこと決められんとあかんのや、と。(口が悪いですね。)


自分のことなんて、わかってもらえるわけはないんです。
逆に、自分のことめちゃくちゃ知ってる誰かが居たら、わたしは怖すぎて警察に行くでしょう。


自分がどのくらい努力してきたか、自分がどのくらいサボったかは自分しかわかりません。

「結果」という指針は絶対的に必要なものではあるけど、
「結果」が出ないことに対して叱咤されるならまだしも、「手を抜いてる」とか「やる気ない」とか、何を基準に判断してるわけですか?って思います。


例えば部下を使って仕事を進めるとして、「結果」が出ないのは全て部下が悪いのでしょうか。
答えはNOです。
采配ミスである可能性はないのか。指導が不十分である可能性はないのか。指示が不適切だった可能性はないのか。


今、考えなくてはいけないのは、「どうすれば結果が出るのか」という道筋です。
状況をきちんと見て、原因を洗いだし、対処していかなきゃいけない。


これがないがしろになっていて、いわば「責任の押し付け」みたいになると、
「全部自分が悪いんや」っていう自己暗示をかけるようになるんです。


自分が悪いと思いこむのは、ある程度まではとても「楽」です。
でも「結果」が要る場面ではとても邪魔になります。混乱を招いて、結局自分を責めることにしか脳が使われなくなってしまい、「結果」を出すことはできません。


自己暗示の力ってバカにできなくて、だから数々の起業家の本が売れるのです。マインドを知りたいから。実際読むと、むちゃくそ面白いですし。


サッカー日本代表、ベルギー戦ご覧になったでしょうか。おもしろい試合でしたね。
これも、日本が負けてしまったのはマインド面がかなり大きく影響していると思います。


後半、日本が先制したときには「これはいけるかも?」という気持ちが膨らんで、いけいけどんどんモードになり、2点目を取りました。
しかしその後、パスミスからボールを奪われて、まさかのゴール。続いてまたゴール。
さっきのいけいけどんどんモードから、「やっぱりダメかも」という精神状態になっただろうと思います。そして、最後、ものの9秒で逆転され、敗退しました。

いけいけどんどんモードに入ったら、結構なんでもうまくいったりするってことはよくある話です。
逆に、「ヤバイかも・・・」という精神状態だと、失敗することは多くなります。


人の人生って、今ではだいぶ寿命も延びましたけど80年しかありません。
自分を責めてるときは、脳が止まっています。前にも後ろにも進むことができない。

ハッキリいって、「無駄」です。


立ち止まって道を探すなら良いけど、結果的にどちらにも進まないならその時間をどぶに捨てたも同然。
前に進めなきゃ、後ろか、横によければよいだけのこと。そちらを向けば、「前」になります。


「誰かにこんな風に見られてしまうのがコワイ」のは、なぜでしょう。
その人は、人生においてそれほど重要な人でしょうか。
そもそも、本当にそんな風に見られているのでしょうか。どうやって判断すればわかるでしょうか。

そしてその人に「こんな風に見られたい」と期待してしまうのはなぜでしょうか。

他者他人に自分のことを理解してもらうことは不可能です。
自分のことを知ってるのは、自分だけです。

では、なぜ一番理解している自分が、自分のことを責めてしまうのでしょうか。
なぜ自分は、自分のしてきた頑張りを褒めてくれないのでしょうか。

自分のことを本当に理解して、本当に褒めてあげられるのは、自分だけです。
他者他人にはわかるはずのないことを期待しても仕方ありません。

他者他人にわかってもらうためには、伝えるための努力をしなければいけません。
そして、その努力をしても、100%実るとは限りません。(伝える努力はとても必要と思いますが)

じゃあまず、100%自分を理解している自分が、自分を褒めてあげればいいのになぁ。

何度も言いますが、自分を褒めてあげられるのは、自分だけです。

自分が自分を否定してしまったら、
自分を本当に理解してくれる味方はこの世界から一人も居なくなってしまうことになります。

じゃあ・・・、

冒頭のおはなしに戻るわけです。味方がいなくなると、残された道は限られています。

ここまでを踏まえて、聞きます。
「あなたは、自分を褒めてあげますか、褒めてあげませんか。」

自己嫌悪に陥っているあなたへ。オシゴトのはなし

いきなりですが、
わたしの周りには「自殺者」、「自殺志願者」あるいは「予備軍」が多いように思います。

誰かと比較してデータを出したわけではないので、はっきりとしたことはいえませんが、
人生の中で出会うことがなかったという方もいると思いますので、
それを考えるとまぁ、多いのだと思います。

なぜ、冒頭からこんな話をするかと言うと、
「自殺」と「自己嫌悪」は、ある程度近しい位置にある(と判断している)からです。
朝っぱらから暗そうな話。すみませんね。


昨日の晩、SNSを眺めていたら、大学時代の友人がひどい自己嫌悪に陥っていました。


いわく、「上司に言われた通りやったつもりやけど全然できなくて仕事がボロボロだ」と。
そして、「『わかったふり』してる、『責任感がない』と上司に見られている」と。


仕事がうまくいかずに落ち込んでしまうことなんか、よくあることです。
にんげんだもの、
ミスすることもあるし、タスクに合ったスキルが不十分であればうまくいくはずはありません。


「完璧な仕事」がこなせるにんげんはゼロです。だって無理だから。
機械でもミスするんだもの。にんげんがミスなく仕事できるはずないじゃんか。と思う。
より完璧を求めるなら、機械にやらせればいいんです。
その方がはるかに性能はいいはずです。ミスがゼロになるということはありませんが。

実際に、将来的にはにんげんの仕事の70%はAIが代替できるようになると言われていますし、今の4割程度の仕事は代替される可能性があるそう。

にんげんの性質は無限にあるし、当然仕事の「向き不向き」はある。
ただ、むつかしいところが、「やりたいという『思い』」と「おまんま食べなきゃいけないという『義務』」があるということ。

「だって、おまんま食べれなきゃ死ぬもん。死なないためにはオシゴトしなきゃあかんでしょ。」

その通りだと思います。

「ツマも居るし、コドモも居るし、だからオシゴトしなきゃあかんでしょ。」

わたしにはわかりませんが、そういう考えもあると思います。


ただ、『オシゴトは、生きるための手段であって目的ではない』っていうのは忘れるべきでないのではないか。


わかりやすく、
生きるために栄養を与えてくれる「趣味」や「家族(団欒)」を『時間』とし。
オシゴトで得られる「お金」あるいは「名誉・肩書き」を『対価』とします。


要はオシゴトって、

『「時間」のために「対価」を払うか』
『「対価」のために「時間」を払うか』

てことなわけです。

で、性質によってどちらが合ってるかが分かれるのだと。


自分の性質がどうかによって、きちんとそれを見極めなくちゃいけません。
なぜなら、生死に関わるから。

勘違いされやすいのですが、
「生きるということ」を「オシゴトをするということ」と思っている人は多いです。


就職しなさい、金を稼ぎなさい、家族を養いなさい、とか。
アルバイト・非正規雇用・契約社員は正規雇用や正社員よりも「格下」だ、とか。


こういうのは「思想」であって、「真理」ではないです。

思想を信じ込んで一生懸命実践するのは、宗教と同じ。
それが良い人には良いし、悪い人には悪い。

その「思想」が自分に合ってるかどうかが一番大事なんじゃないかなぁ。

・・・うまくまとめられなかったけど、次の記事はこころの話をしようと思います。

2018年4月5日木曜日

職業的○○と協力的○○の圧倒的違いについて

つぼさかは激怒した。

否、それほどではない。


でも、ちょっと引っかかったことがあるのでしたためる。
ホントは紹介したい舞台があったのでブログをアップしようと思ってたのですが、
別件の諸々でちょっと引っかかったので、内容を一部変更してお届けしています。

紹介したい舞台については、明日、改めて。


・・・これまで、特に、大阪に来てから言われ始めたことがある。


「で、結局、役者と照明どっちがやりたいの?」

逆に聞きたい。

「どっちかじゃないとダメなの?」



京都でやってたときは、
そんなこと言われたことは一回もないけど。


なので、角が立たないようにその時に合わせて答えてますが、
たぶん状況と人によって「意見のふらふらするよーわからんやつやな」とは思われてると思う。

でも、申し訳ないけど、どーでもいい。



もちろん、「お仕事ですから。」と割り切って、という場合ももちろんあります。
ありますが、そういう現場はどちらかというとキライです。



あれ。お芝居って、作品って、・・・・・・と思うのです。

そりゃ、「ガチガチにやりたいことが決まってます、だから全くこの通りにしてほしいんです。」ていう、スタンスであれば別の話ですが。

それはそれで、別に否定はしません。

「この値段の報酬をお支払いしますので、このくらいの仕事をしてください。」という相互の理解があるのなら、「お仕事」ですから。

「職業的お仕事」の価値観です。


でも、例えばね。
「こういうことがしたいんです。でも、お金がありません。」てなったらどうでしょう。

普通なら、
・そのお仕事を受ける前に報酬の交渉をして、相互の理解が得られる契約をする
・予算内でできる範囲の仕事を提案する
・断る
の3択ですよね。

その3択も選べない場合は、「お仕事」ですか?

「お給料もらうなら何でもかんでも、どんな条件でもお仕事でしょ!」ていう横暴な意見の人もいるかもしれませんが、
その、「お仕事」以上のものが得られる「別件」があったとしたら、どちらを選ぶかは当事者の自由ではありませんかね。

「お仕事」してない分の報酬は受け取らないんですから。
「お仕事」なんだったら、そんな言われる必要あります?

と、問いたい。


そういう「職業的な」お仕事に対して、「協力的な」お仕事について、よく覚えておいて欲しい。

報酬が十分でなくても、やりたい「お仕事」ってのは、世の中にいくらでもある。

人生の価値を、「お金」っていう指針で考えていない人、
もしくは「お金」を他の事柄と純粋に比較できる人は、「報酬」だけではお仕事を選ばない。

あえて、断言します。

例えば、「あなたの現場なら、ディスカウントしてお仕事を請け負います」みたいなこと。
個人的な関係性かもしれないし、「あなたの現場」に価値があるのかもしれないし、「あなたの現場にいる人」に価値があるのかもしれないし・・・

少なからず、「あなたの現場に投資する価値があると判断しています」ということ。
それが現金かどうかは、人生におけるそれぞれの価値感で変わるだろうと思う。
これ、すなわち「協力的お仕事」。


「協力的お仕事」ていうのは、関係がすごく希薄。首の皮一枚でつながっている状態です。
受ける側が、受ける側にとっての価値を見出せなくなった瞬間に終わる関係です。

その点、「職業的なお仕事」は報酬という確固とした価値があるので、なかなか終わりません。


そこで、今回の問題。

ある「協力的お仕事」よりも、他の「協力的お仕事」に価値を感じたとき、前者のお仕事の割合を減らしたときに、
誰が咎める権利があるのか。怒りを買うのはお門違いだと思うんです。

『前者は後者よりも、「価値」を見出す必要があった』というお話。


そして、でも、前者の協力的お仕事に対して、受注者は「協力したい」と思う気持ちがあって歩み寄ろうとしても、
それが互いにうまく行かない場合は、その歩み寄りも無意味になってしまうということ。

・・・厳密には、無意味にはならないのでしょうが、結局「ないがしろにされた感」だけが残って、結果的に受注者にとっての価値が下がることは間違いないということ。