いきなりですが、
わたしの周りには「自殺者」、「自殺志願者」あるいは「予備軍」が多いように思います。
誰かと比較してデータを出したわけではないので、はっきりとしたことはいえませんが、
人生の中で出会うことがなかったという方もいると思いますので、
それを考えるとまぁ、多いのだと思います。
なぜ、冒頭からこんな話をするかと言うと、
「自殺」と「自己嫌悪」は、ある程度近しい位置にある(と判断している)からです。
朝っぱらから暗そうな話。すみませんね。
昨日の晩、SNSを眺めていたら、大学時代の友人がひどい自己嫌悪に陥っていました。
いわく、「上司に言われた通りやったつもりやけど全然できなくて仕事がボロボロだ」と。
そして、「『わかったふり』してる、『責任感がない』と上司に見られている」と。
仕事がうまくいかずに落ち込んでしまうことなんか、よくあることです。
にんげんだもの、
ミスすることもあるし、タスクに合ったスキルが不十分であればうまくいくはずはありません。
「完璧な仕事」がこなせるにんげんはゼロです。だって無理だから。
機械でもミスするんだもの。にんげんがミスなく仕事できるはずないじゃんか。と思う。
より完璧を求めるなら、機械にやらせればいいんです。
その方がはるかに性能はいいはずです。ミスがゼロになるということはありませんが。
実際に、将来的にはにんげんの仕事の70%はAIが代替できるようになると言われていますし、今の4割程度の仕事は代替される可能性があるそう。
にんげんの性質は無限にあるし、当然仕事の「向き不向き」はある。
ただ、むつかしいところが、「やりたいという『思い』」と「おまんま食べなきゃいけないという『義務』」があるということ。
「だって、おまんま食べれなきゃ死ぬもん。死なないためにはオシゴトしなきゃあかんでしょ。」
その通りだと思います。
「ツマも居るし、コドモも居るし、だからオシゴトしなきゃあかんでしょ。」
わたしにはわかりませんが、そういう考えもあると思います。
ただ、『オシゴトは、生きるための手段であって目的ではない』っていうのは忘れるべきでないのではないか。
わかりやすく、
生きるために栄養を与えてくれる「趣味」や「家族(団欒)」を『時間』とし。
オシゴトで得られる「お金」あるいは「名誉・肩書き」を『対価』とします。
要はオシゴトって、
『「時間」のために「対価」を払うか』
『「対価」のために「時間」を払うか』
てことなわけです。
で、性質によってどちらが合ってるかが分かれるのだと。
自分の性質がどうかによって、きちんとそれを見極めなくちゃいけません。
なぜなら、生死に関わるから。
勘違いされやすいのですが、
「生きるということ」を「オシゴトをするということ」と思っている人は多いです。
就職しなさい、金を稼ぎなさい、家族を養いなさい、とか。
アルバイト・非正規雇用・契約社員は正規雇用や正社員よりも「格下」だ、とか。
こういうのは「思想」であって、「真理」ではないです。
思想を信じ込んで一生懸命実践するのは、宗教と同じ。
それが良い人には良いし、悪い人には悪い。
その「思想」が自分に合ってるかどうかが一番大事なんじゃないかなぁ。
・・・うまくまとめられなかったけど、次の記事はこころの話をしようと思います。