つぼさかは激怒した。
否、それほどではない。
でも、ちょっと引っかかったことがあるのでしたためる。
ホントは紹介したい舞台があったのでブログをアップしようと思ってたのですが、
別件の諸々でちょっと引っかかったので、内容を一部変更してお届けしています。
紹介したい舞台については、明日、改めて。
・・・これまで、特に、大阪に来てから言われ始めたことがある。
「で、結局、役者と照明どっちがやりたいの?」
逆に聞きたい。
「どっちかじゃないとダメなの?」
京都でやってたときは、
そんなこと言われたことは一回もないけど。
なので、角が立たないようにその時に合わせて答えてますが、
たぶん状況と人によって「意見のふらふらするよーわからんやつやな」とは思われてると思う。
でも、申し訳ないけど、どーでもいい。
もちろん、「お仕事ですから。」と割り切って、という場合ももちろんあります。
ありますが、そういう現場はどちらかというとキライです。
あれ。お芝居って、作品って、・・・・・・と思うのです。
そりゃ、「ガチガチにやりたいことが決まってます、だから全くこの通りにしてほしいんです。」ていう、スタンスであれば別の話ですが。
それはそれで、別に否定はしません。
「この値段の報酬をお支払いしますので、このくらいの仕事をしてください。」という相互の理解があるのなら、「お仕事」ですから。
「職業的お仕事」の価値観です。
でも、例えばね。
「こういうことがしたいんです。でも、お金がありません。」てなったらどうでしょう。
普通なら、
・そのお仕事を受ける前に報酬の交渉をして、相互の理解が得られる契約をする
・予算内でできる範囲の仕事を提案する
・断る
の3択ですよね。
その3択も選べない場合は、「お仕事」ですか?
「お給料もらうなら何でもかんでも、どんな条件でもお仕事でしょ!」ていう横暴な意見の人もいるかもしれませんが、
その、「お仕事」以上のものが得られる「別件」があったとしたら、どちらを選ぶかは当事者の自由ではありませんかね。
「お仕事」してない分の報酬は受け取らないんですから。
「お仕事」なんだったら、そんな言われる必要あります?
と、問いたい。
そういう「職業的な」お仕事に対して、「協力的な」お仕事について、よく覚えておいて欲しい。
報酬が十分でなくても、やりたい「お仕事」ってのは、世の中にいくらでもある。
人生の価値を、「お金」っていう指針で考えていない人、
もしくは「お金」を他の事柄と純粋に比較できる人は、「報酬」だけではお仕事を選ばない。
あえて、断言します。
例えば、「あなたの現場なら、ディスカウントしてお仕事を請け負います」みたいなこと。
個人的な関係性かもしれないし、「あなたの現場」に価値があるのかもしれないし、「あなたの現場にいる人」に価値があるのかもしれないし・・・
少なからず、「あなたの現場に投資する価値があると判断しています」ということ。
それが現金かどうかは、人生におけるそれぞれの価値感で変わるだろうと思う。
これ、すなわち「協力的お仕事」。
「協力的お仕事」ていうのは、関係がすごく希薄。首の皮一枚でつながっている状態です。
受ける側が、受ける側にとっての価値を見出せなくなった瞬間に終わる関係です。
その点、「職業的なお仕事」は報酬という確固とした価値があるので、なかなか終わりません。
そこで、今回の問題。
ある「協力的お仕事」よりも、他の「協力的お仕事」に価値を感じたとき、前者のお仕事の割合を減らしたときに、
誰が咎める権利があるのか。怒りを買うのはお門違いだと思うんです。
『前者は後者よりも、「価値」を見出す必要があった』というお話。
そして、でも、前者の協力的お仕事に対して、受注者は「協力したい」と思う気持ちがあって歩み寄ろうとしても、
それが互いにうまく行かない場合は、その歩み寄りも無意味になってしまうということ。
・・・厳密には、無意味にはならないのでしょうが、結局「ないがしろにされた感」だけが残って、結果的に受注者にとっての価値が下がることは間違いないということ。