2019年11月9日土曜日

誕生日はなぜおめでたいのか。

小さい頃から、ずっと疑問でした。

誕生日って、なんで「オメデトウ」なのか。


31年前の11月8日、
そろそろお昼にしようかというとき、わたしはうまれた。

といっても、もちろんわたしにはそのときの記憶はない。
小学校だかの道徳の授業か、生活科だったか、総合学習か、
とにかく何かの授業で先生に言われたのだ。

自分が生まれたときの様子を聞いて発表しろ。と。
それも、6年間のうちに何回か、そういった授業があったのだ。

わたしは、わたしの「出生」について、
"人に聞いて学習した"。


なんだそれ。

自分のことを他者に聞いて自分を知るって。

「キミはこういうクセがあるね。」
「あらやだ気が付かなかった。」
「あはは」「うふふ」

てことだ。

「照れてるとき、髪かきあげる僕のクセからかうんだね」

てことだ。


なんだそれ。

そりゃオーマイキーみたいになるわ。と。
そりゃ僕の背中には羽はえるわ。と。


これは余談だが、以前、同棲していた彼に
「キミは、眠りにつく直前、必ず一回だけ歯を噛み鳴らす癖があるね」と言われた。

今もその癖はあって、指摘されたことで
「あ。ほんとだ。今、歯鳴らした。わたしは今眠いんだ。」と自覚するようになった。

いやおかげで眠気が覚めるのだ。
眠れそうだったのに。とんだ迷惑だ。


話が逸れた。


まぁ、こんな感じで、
わたしは人に教えられて、自分の誕生日を知った。
教えられなければ、わたしはわたしの誕生日を知ることはなかったし、
実際のところ、この日付が本当かどうかはわからない。

人の記憶は変わるし薄れるし、
記録が間違ってる可能性もある。そんな風に、教科書は何回も正解を変えてきた。


そんなこんなで、

わたしはどうも、「誕生日」がおめでたいものだとあまり感じたことがない。


そこで、今年の誕生日は、「誰にも祝われない日」にしよう。と、決意した。
というか、去年から決めていた。

残念ながら100%は無理だった。
世の中にはマメな人いる。

ありがたいが、やはりよくわからない。


"ほとんど"誰にも祝われず、教育された誕生日をいつも通り過ごしたわたしは、はたと気がついた。

【わたしの誕生日は、わたしのものではない。】と。

これまで32回この日を過ごしたけれど、
人から教えられなければ知らなかったし、
実感としてわたしが嬉しく感じた日はなかった。
ほかの日と何が変わったということはなかった。


ただし、

31年前のその日、ほかの日とは比べものにならないくらい
よろこんだ人はいたのだろう。

わたしの父と、母と。
"おにいちゃん"になった兄と。
この人たちの親や家族たち。

わたしの誕生日は、わたしへのおめでとうなんじゃなく、
この人たちへのおめでとうだったのか。

なぜ、誕生日がおめでたいのか。少しわかった。