誕生日って、なんで「オメデトウ」なのか。
31年前の11月8日、
そろそろお昼にしようかというとき、わたしはうまれた。
といっても、もちろんわたしにはそのときの記憶はない。
小学校だかの道徳の授業か、生活科だったか、総合学習か、
とにかく何かの授業で先生に言われたのだ。
自分が生まれたときの様子を聞いて発表しろ。と。
それも、6年間のうちに何回か、そういった授業があったのだ。
わたしは、わたしの「出生」について、
"人に聞いて学習した"。
なんだそれ。
自分のことを他者に聞いて自分を知るって。
「キミはこういうクセがあるね。」
「あらやだ気が付かなかった。」
「あはは」「うふふ」
てことだ。
「照れてるとき、髪かきあげる僕のクセからかうんだね」
てことだ。
なんだそれ。
そりゃオーマイキーみたいになるわ。と。
そりゃ僕の背中には羽はえるわ。と。
これは余談だが、以前、同棲していた彼に
「キミは、眠りにつく直前、必ず一回だけ歯を噛み鳴らす癖があるね」と言われた。
今もその癖はあって、指摘されたことで
「あ。ほんとだ。今、歯鳴らした。わたしは今眠いんだ。」と自覚するようになった。
いやおかげで眠気が覚めるのだ。
眠れそうだったのに。とんだ迷惑だ。
話が逸れた。
まぁ、こんな感じで、
わたしは人に教えられて、自分の誕生日を知った。
教えられなければ、わたしはわたしの誕生日を知ることはなかったし、
実際のところ、この日付が本当かどうかはわからない。
人の記憶は変わるし薄れるし、
記録が間違ってる可能性もある。そんな風に、教科書は何回も正解を変えてきた。
そんなこんなで、
わたしはどうも、「誕生日」がおめでたいものだとあまり感じたことがない。
そこで、今年の誕生日は、「誰にも祝われない日」にしよう。と、決意した。
というか、去年から決めていた。
残念ながら100%は無理だった。
世の中にはマメな人いる。
ありがたいが、やはりよくわからない。
"ほとんど"誰にも祝われず、教育された誕生日をいつも通り過ごしたわたしは、はたと気がついた。
【わたしの誕生日は、わたしのものではない。】と。
これまで32回この日を過ごしたけれど、
人から教えられなければ知らなかったし、
実感としてわたしが嬉しく感じた日はなかった。
ほかの日と何が変わったということはなかった。
ただし、
31年前のその日、ほかの日とは比べものにならないくらい
よろこんだ人はいたのだろう。
わたしの父と、母と。
"おにいちゃん"になった兄と。
この人たちの親や家族たち。
わたしの誕生日は、わたしへのおめでとうなんじゃなく、
この人たちへのおめでとうだったのか。
なぜ、誕生日がおめでたいのか。少しわかった。