2018年12月10日月曜日

『底なし女とパリの狂人(ロイン機関、構成・演出:丑田拓麻)』をみたよ。

先日、大阪の小劇場、浄土宗應典院本堂にて、『底なし女とパリの狂人』という作品をみてまいりました。

感想、は、特に上げるつもりはないです。観たものに関しては。
覚え書きと、そこから派生する思考のまとめ的な話です。
ま、ちょこちょこ触れるとは思いますが。

ただ、書き進めてるとえらい長くなってしまったので、
まずこの記事では作品の概要的な話にとどまるんだろうと思います。


さて、冒頭の通り、みました。
ご覧になってない方のために、ざっくりと、あらすじを説明。
(関係者の方、間違ってたらすいません。一観客の解釈です。)

主人公は、中年小太りの女性・・・や、グラマラスな熟女。
23歳で結婚すると思ってたけど、気づいたら35。
まわりが寿退社していく中、上司たちからからちくちく結婚のこと言われて気まずくなって、「海外で挙式をした」と嘘ついて当てもなく退社。

それに関して親からちくちく言われたので「実は起業した」とまた嘘をついてやり過ごす。
暇を持て余してハンドメイドで物販するが軌道に乗らず、
「じゃあ既成のものに手を加えて売ろう」となって、染めた布で時計を作ってなんとなく成功する。

でも、一人での作業は手が回らず、ふと見つけたチラシを見て、ある会社に受注を頼むことにする。
その会社へ向かう途中、主人公は穴に落っこちて、落っこちた先にその会社がある。
そこで働くのは、他とはちょっと違った特徴(欠点?ハンディキャップ?)のある、動物たちでした。

その動物たちは、特徴を活かしてまじめにはたらきます。
しかし、その特徴で、他の人たちよりも生産性がない。穴の上の人間たちが納める税金で何とか生活をしているのでした。

そこで仕事を教え、動物たちと過ごしている間に信頼関係が生まれ、居心地の良さを得る主人公。

ある日、事件が起こります。
そこで働いている動物の1匹(アヒルなので1羽)が、穴の上に住む心ないコドモに殺されてしまいました。

裁判になりました。
「穴の上のコドモは普段はとてもいい子でこの先の未来がある。でも死んだアヒルやそこで働く動物たちは圧倒的に生産性がない。税金で生活している、搾取している。だからコドモは罰しません。」
抗議しようとしますが、動物たちは人間でないので発言権はありません。
どうすることもできない動物たち。

「このことを世にわからせるために(?)、このことを絵本にします。」
と、そこで働くトカゲが言いました。

いずれ、穴の上も穴の下もなく、平等に、差別なく生活できる世の中になるために。

・・・・・・という、物語。
を、書いたトカゲさんが、受賞(したのかな?発表のセレモニーかな?)のスピーチで、絵本について話している。のを、視覚化している、ていう構造。

なので、本来の主人公でいうと、トカゲになるのかな。語り、という点では。

いずれ、この「行って帰る」系のストーリー構造についても触れたいところですが、
これもまた長くなりそうなのでまた後日。


演出家の丑田くん自身が、
ホームレスの方が働く「内職センター」に仕事をお願いしたという経験があるそうで、

『偏見』から入ったものの、
居場所のなかった自分に話しかけてくれた方がいて。
その話に感銘を受けて、できあがった作品のよう。(←推測です。)

いわば、
その人に対しての「感謝」「いとおしさ」の作品であるのだろうし、
「何とかしたい、してあげたい」という意思や、
「知らなければならないことだ」という使命感、みたいなものが
作品の根底にはあるのかなと、感じました。

こういう、誰かピンポイントに対象が居たり、何かに突き動かされてつくりあげられる作品。て、悪くはないなぁ。と思います。

実際、わたしも作品をつくるときには、「誰かひとり」に向けて書くし、
「ラブレター」だと思っていますし。ラブレターより心込めるけど。←

たくさんの人にみてもらうために作品づくりをするのだけれど、
たくさんの人のためにつくると薄まっちゃうところもあるので匙加減は難しいですよね。

でも、「あなた」のいない作品は、まったく意味がないよね。と思う。
そういう意味では、この作品を演劇として発表するのは、
彼の中でも大きな意味があったのだろう。と、感じました。(←結局感想ぽくなるわたし)