2019年1月7日月曜日

2019年観劇はじめ。『河童ライダー(かしこしばい 於:ウイングフィールド)』をみました。

2019年の観劇はじめは、実は9日の予定でした。が、ひょんなことから繰り上げで観劇はじめをすることとなりました。

というのは、わたしが小劇場に足を踏み入れて間もなくの頃からお付き合いのある、パイセン兼マブダチ(死語)のスタッフさんから、「たぶん、すきな作品だと思うよー」と、わざわざ電話での知らせがあったからだ。深夜に。

お仕事もあるにはあったのだが、10年来のマブダチ(死語)が薦めてくれるなら…と、半徹夜で子宮頸がんの検診を受けた後、諸々の予定をさくっと終わらせて劇場へ向かうことにした。コンディションは、まずまずだ。

知ってる人は知っている、知らない人は覚えてね。
何を隠そう、わたしは「アングラ」が大好物だ。
「なんたってわけわからん。でもなんでこんなに感動するんだろう。わけわからん。」みたいな作品は、もう、たまらん。

そして、「静かな演劇」も大好物だ。
「なんて凝縮した空気感。生感。何も起こらないのに、どうしてこんなに劇的なんだ…!」みたいな作品も、もう、たまらん。

話は逸れるが、商業演劇軽演劇もすきだ。あと、いい大人たちが汗だくで唾飛ばして捲し立てる系の、いわゆる小劇場演劇(ちょっと昔の、オーソドックス!なやつね。)もめちゃくちゃすきだ。


■『河童ライダー』について。作品の話しなくっちゃ。■


で。
今回拝見した『河童ライダー』
ジャンルで言うと、「アングラ」と「静かな演劇」の合いの子。という印象(つぼさか視点)。どちらの要素もある。でもどちらでもない。という感じ。

これは、良くも悪くも、という意味です。良くも悪くも「アングラ」だし、良くも悪くも「静かな演劇」だったという感想でした。どちらも大好物なだけに、《物足りなさ》を感じてしまう部分もやや目立ちました。一観客として。

作品全体としては、上の件もありつつも非常に好感が持てる仕上がりになってるなと。とても感心しました。すごいなぁ、若い人たち…。

追いかける…とまではいかないまでも、次回‥次々回の作品はチェックしてみようかしら。と、思っています。

ちなみに、あらすじ…というか、内容は、ある家族のお話で。

結果的に孤独死のような形でおばあちゃんを亡くしてしまった僕(主人公)の心を描いた作品で、
演劇部の僕が、おばあちゃんを河童になぞらえて脚本を書いているシーンがベースになっているお話(孤独死したおばあちゃんは腐ってしまって河童のような姿になっていたのだろう)。

姉ちゃんは、新興宗教かマルチ商法にハマっているらしい。作品では明確にはならない。でも、その組織から買った「なんかイイ水」を大切に持っている。そして、これが原因で父(作品では出てこない)から暴力を受けているらしい。姉ちゃんは、新興宗教だかマルチだかに何かしらの救いを求めている。

僕は、想像のおばあちゃん(河童)と過ごすのだが(そして、しがらみから助けてくれるのだが)、おばあちゃんは唐突に去ってしまう。←多分、現実と向き合うという葛藤なのだろう。

親戚一同が、面倒をみず、孤独死に追いやってしまったおばあちゃん。
なんとか、向き合いたい。でも、今までの自分の軽薄さへのうしろめたさと親戚一同への嫌悪感で向き合うことができない。姉ちゃんも、「イイ水(組織)」への疑問があれど、立ち切れない。

それでもおばあちゃんと向き合いたくて、おばあちゃんに乗せてもらったバイクの想い出にのって、追いかける。追いつかない、追いつかない。
だから、これまで自分を縛り付けていた「うしろめたさ」や「(軽率な)救い」と向き合い、それらを捨てて身軽になると、バイクのスピードが上がる。…そして。

・・・みたいな。わたしの解釈なので、違ってたら関係者の人すみません。

ツライことはあるさ。「ああしておけば、こうしておけば」はあるさ。でも、前向いて生きていこうよ。みたいな、そういうメッセージを受け取ったような気がしています。


(ちょっと真面目っぽいコト言います。)演劇の構成要素と観客のこと■

で、で。ここからが、ちと、大事…。

思うんですよ。演劇って、って。

演劇って、3つの基本要素があると言われているのです。その3つが、「空間」「俳優」「観客」。人によっては(本によっては、でもある。)、「空間」が「脚本」に変わったりもするけれど。

観客と俳優が存在すればそこが「空間」になるわけだし、インプロ(即興劇)とかもあったりして、「脚本」は存在しなくても良い、という考えもあるので、この2つは作品性とかどこに価値を見出すかによって変わってくるのだと思うのですが。
あと、「演出」というのも入ったりするけど、演出を立てずに構成していく演劇作品もあるので、これも同じく。

多少、第三の要素としては入れ替わることもあるけれど、絶対的な基本要素としては、「俳優(=演じる者)」「観客(=それを観る者)」が必要なんです。演劇には。

当然、劇場で作品を観るとき、観客はチケット代を払って席に座ります。2500円とか、作品によっては8000円とか、もっと払うこともある。でも、演劇の構成要素として「観客」は必要不可欠なものでもあるのだ。と。

これってすごくないですか?
観客は、文字通り、客(=サービスを受ける側)であり、その一方では演劇の一部(=サービスを与える側)である。

これってすごくないですか?
『客席に座って作品をただ観ている自分は、この作品の一員である。』ていうのって。

演劇って、作家、演出家や俳優だけでは成り立たなくって、最後のエッセンスとして「観客」が加わることによって、その瞬間の作品が完成するんです。やっと。

これって、すごくないですか?

なので、わたしは基本的に、作品を観るときには『自分もこの人たちの作品の一部である』ということを思いながら客席に座ります。でもやっぱり、これまで生きてきた価値観や好みもあるから、できるだけ、自分が力を貸せるだろう作品の客席へ座るようにしています。

だって、舞台に立つとわかるんですもの。今目の前に座っている観客が、どのくらいこの作品を好きなのか。とか。
俳優も、スタッフも人間ですから、誰かから好きになってもらえるとパフォーマンスは上がるんです。その逆も然り。

わたしは、できるだけ良いパフォーマンスの俳優がみたいし良いパフォーマンスのテクニカルをみたいので、それならわたしもこの作品を一生懸命みよう。と思うのです。だってその方が良い作品に出逢える可能性が高くなるんだもの。て。

あとね。
作品を最大限に楽しむためには、自分のあるべきゴールに収めようとしないことです。

あなたはわたしではないのです。
これまで生きてきた環境も違うし、教わったことも違うし、食べるものも違うし、好みのタイプも違えば大事にしてることも違う。それなら、同じものを見たとしても、解釈や感じ方は当然違うのです。

世の中には、おもしろくないものって存在しないんじゃないかなって思います。
ただ、誰かがおもしろいと感じるものを、自分がおもしろいと思えるだけの知識と経験と教養が足りないだけなのです。
おもしろいものをおもしろく感じないってすごく残念なことですよね。だし、「おもしろい」は多ければ多いほど、人生得した気分になります。というか、絶対得です。

今、現在では「おもしろくないなぁ…」と思ったとしても、いずれ時間が経てばおもしろさがわかるかもしれません。それは、自分次第

損したくないから、今の自分ではおもしろさがまだわからないことでも、自分の価値観で塗り固めようとせずに、わからないならわからないなりにきちんと包んで心の中に留めておくことをおすすめします。強く。

■最後に、ニーチェがこんなこと言ってたそうです。■


事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。』

うむうむ。なるほど。「深い~」ですよね。